2026-W29 もっとダサく見苦しくいきたい


これは7/13から7/19までの日記だ。それを今、7/24の金曜日に書いている。 思うことあり、脈絡なく、上からしたまで、思いの丈を書き散らしてみた。

仕事について思ったことを書く

人生を考えていく上で、今いる職場はずっといる居場所ではないかもしれないと考えた一週間だった。相方と相談しながら、もっと自分が活かせる場所を考えていきたいわけだが、正直自分が社会に対して「何ができる人間」なのか、恥ずかしながら検討がつかない。それどころか、何をして生きていきたいのか、さえも、うまく像を結ばない。

自分の興味・関心と稼げる才能をきちんと言語化しなければならない。残念ながら、自分が長く「自分の専門分野っぽいもの」と信じようとしてきたものは、時間の経過に加え、昨今のAI勃興による知識・技術の陳腐化により、今後は通用しなくなっていくだろうと言わざるを得ない。そのことを思うと絶望的な気分にもなるが、何とか糸口を見つけるために、これからもダサく見苦しく発信を続けるべきなのかもしれない。

もっとダサく見苦しく

ダサく見苦しく。洗練されていない考え、矛盾して像を結ばないアイデア、他者を説得する可能性のない虚栄に満ちた言説こそが、これからの時代に求められることではないか。AIは身体と、寿命と、人生を持たない。その構造上、そういうみっともない人間のエネルギーみたいなものこそ、AIが持ち合わせようがないものだと思うからだ。エネルギーといっても、人間を動かすためのエネルギー、それも熱エネルギーのような直接的なものではなく、共鳴によるエネルギーのようなものである。それは知的に見れば実態を伴ったものではないかもしれないが、人間は詰まるところ人間にしか興味がないのだから、そうした不完全さこそ、画面の奥にいる一個の人間の実存を確認する唯一のタグに、今後なっていくのではないだろうか?

とにかく、肉体と連続した自意識を持たないAIがいくら人間のアウトプットを模倣したところで、一個の人間が頭を絞って、カフェの一角で(例えば今はとあるタリーズコーヒーの、隅っこのなかの隅っこでこれを書いている)、時々髄鞘炎を心配しながら、半ば自分に呆れながら書いているこういう文章に伴う、フィジカルなグルーヴまでは再現できないのではないか—そんな思いがある。汗をかかないAIの言葉にだって救われることは確かにあるし、その価値は否定しないが、自分の文章は、ここではない場所で誰かが書いた文章を読んでいるという深い実感を感じられるものであってほしい。

多分、これからの時代を生きる人間は、SNSの共感どころでは満足できなくなるんじゃないか。これまでの、ある種ゲーム的な心レベルの交感では満足できなくなり—(そんな口先3寸のものはとっくにAIに模倣されている)、もっと泥臭く汗臭い、フィジカルな部分の共鳴に、人間と人間の繋がりを見出そうとするのではないかと思っている。

何の話やねんって感じだが

とにかくここで話は戻るが、自分の人生における仕事への違和感を誤魔化せなくなってきていて、その状況が今述べたような「ダサく見苦しい」発信をして行かなければという切迫感につながっている。いい歳して自分探しをしたいわけではないが、これからの何十年を投じる上で、今の延長線上にいるのが、たとえ転職のリスクと天秤にかけてさえも、あまり得策とは思えなくなってきた。今ある仕事場はとてもsquareな(お堅い)業界で、スマートとは程遠い世界である。その非スマートで泥臭いところが嫌で嫌で仕方がなくなったのだが、ところが一方で、自分がどこか憧れてきた効率的・能率的・ゲーム的な「スマートな世界」は、その予測可能性、再現性の高さによってAIによって簡単に乗っ取られそうな気がしていて、自分が行くべき場所がわからなくなってきている。非効率的で保守的な職場が嫌いだが、一方でその非効率性と保守性がゆえに身分が保証されており、そこから出ていくことに恐怖を覚えているという、そんな矛盾した感情を抱いているのだ。

そんな自分ができることは、自分に嘘をついて結論を述べるのではなく、矛盾した感情、それも見苦しい感情を包み隠さず、体裁を整えずに出してみることではないか。これが一旦の、今導いたばかりのホヤホヤの結論だ。

いかに今の職場が嫌いになったか

携わっているのは、とあるイベントの主催だ。その準備を、同僚もとい上司と勧めていく過程で、いかに自分が職場文化から外れているのかがよくわかった。自分が何を嫌い、どういうふうに働きたいか、生きて行きたいかという疑問に向き合わざるを得ない時間だった。誰でもそうであるように、考え方と価値観の合わない他人に振り回されるのが嫌いだし、自分が正しいと思えない相手に仕えるのがストレスだった。非効率的だと思うやり方に付き合わされて働いても価値を感じない。かといって、自分のやり方を押し通すほどには自分に自信がないのも問題なのだが。

以下はあくまで自分のいる会社の現在の部署に関する感想である(私は中途半端に海外文化かぶれなので、ついつい「日本の職場は」という感じで主語が大きくなってしまうが、他の職場をろくに知らずにそういうことも言えない)。

流石にデジタルに疎すぎる

何よりストレスなのは、基礎的なIT技術の欠如である。というか、はっきり言ってITというほどのものでもない。言ってて恥ずかしくなるのだが、うちの職場ではExcelやAccessがまともに触れるというだけで確実に「デジタルができる人」枠として上位なのだから。

例えばこんなことがあった。ある連絡先一覧がある。イベント参加者に関する電話番号やら住所やらが載ったもので、その参加者が関係する団体(とりあえず変な日本語だが関係先と呼ぶ)に送るためのもので、Microsoft OfficeのAccessで作ってある。Access上には参加者情報、関係先情報のテーブルがあって、それを参加者と関係先の対応情報のテーブル(一対多の関係性にある)を介したクエリをベースに、関係先でグルーピングしたレポートとして連絡先一覧を出力するわけだ。

連絡先情報に誤りがないか、ダブルチェックをしたいと思うとする。電話番号や住所とかを申し込み用紙から写し損ねていないかという確認である。普通の知識があれば、そのためにチェックすべきは参加者情報のテーブルだと理解するだろうが、うちの職場ではそうはいかない。成果品である関係先別の連絡先一覧表それ自体を、参加者の申し込み情報と睨めっこしながら検品するのである。これは言うまでもなくかなり無駄な作業である。参加者は複数の関係先と対応するので成果品である一覧上には1人の名前が複数回掲載されるわけだが、それら全てについていちいち、参加者が申し込み時に登録した一覧と睨めっこしてチェックするである。不可解の極みである。

うちの上司は参加者情報テーブルの情報を共通リソースとしているという基礎事実を(何度説明しても)理解していないと思われるのだが、問題は、わからないなら分からないなりに、効率的な方法を探るべきではないのか? ということである。多分彼としては、成果品である連絡先一覧そのものという、彼の常識に照らして一番確実なもので全てを見ないと気が済まなかったのだろう。もちろん最終成果物を直接確かめるという作業は、あらゆる想定外を炙り出すために”最低限”やるべきだが、ただしそれは背景知識を持った上で、合理的に行われるべきで、文字数の関係などでレイアウトが崩れていないかとか、参加者自体の漏れがないか(それもクエリでやった方が効率的だが)とか、原理を抑えた上で時間と得られる成果を天秤にかけながらやることだろう。連絡先を誤ってデータ化していないかという確認を一覧表をめくりながら個別にやるのは、単純に分量を考慮しても無駄だし、有限の注意力を割くべき優先順位を間違っている。

要するに彼はAccessというシステムの根本の常識を疑っているのだが、人間の仕事に対するエラーチェックというよりは、MSの中の人(Accessのデバッガー)がやることである1

できない人に合わせる

問題の根本は、「できない人の原理で動いて当たり前」という風潮である。Accessという仕組みが彼には理解ができないために、こちらがテーブルとクエリの関係性をどれだけ説明したところで、その直感レベルの疑惑を拭うことができないのである。クエリやレポートを見せて、ここはこういう設定をしていますよと説明したところで、それを読み解く知識がないのだから意味をなさない。

だったら自身の知識不足を認めた上で、最低限理解する努力をするなり、こちらの説明を求めた上で、それでも理解できない部分を、お互いが妥協できるワークフローを考えだして着地する、とかそういう誠意があればまだいいのだが、残念ながら彼はあまりにも頑なである。これは彼個人への不満というよりも、文系・理系の括りでは片付けられないほどの、職場の人員の基礎的なコンピュータ知識のレベルの低さに対する絶望である。

Accessへの不理解は暴走も引き起こす。Accessのレポートはレイアウトにおける使い勝手の悪さで有名だが(なんであんな古臭いUIなのか)、それでもいまだに日本の職場が甘んじて使うのには、「大量のデータを、共通のリソースに基づいて、統一したルールによって、安全・簡単に処理してことができる」という一応の利点があるからだ。しかし決裁権を持つ人間がそうしたトレードオフを理解していないとどうなるか?

例えば、2種類のレポートがある。そこに掲載される、共通のテーブルの共通の項目(「短いテキスト」)の文面に対して、異なる挙動を求めるわけだ。その理由は改行の位置が気に入らないだのといった美観的なものであるが、そうした細かな「個別の気配り」を犠牲にすることで全体に対して効率的な処理が出来ているのだという恩恵を、どうも理解していないようだった。多分感覚としては「Excelの差し込み印刷」みたいな感じで、一旦機械的に吐き出した結果に対して、細かな「個別の気配り」を適用できて当然だし、適用したいのだろう。

要らない丁寧さ

ところで、彼の考えでは、例えば「連絡先一覧」一つとっても、読む人が見やすいタイミングで改行をするべきなのだそうだ。そこにあるのは人間の慮りみたいなもので、彼にしてみればそうした細かい配慮に時間をかけることこそが「丁寧な仕事」らしいが、私の考えではそれは「過剰で誰も幸せにしない、データ構造を過剰に複雑にするだけの自己満足ルール」でしかない。

事務的な書類に対して、無闇に美観的な配慮を求めるのは不合理だ。私たちが作ろうとしているのは、文書は文書でも、関係先に参加者の情報を知らせることだけを目的としたものだ。誰かのオフィスに飾られる表彰状でもなければ、永久に残る出版物でもないわけで、そうしたものに「ここの文章はここで改行していた方が読みやすい」とか、「フォントが統一されていないと気持ち悪い(メールアドレスの誤読を避けるため、一部を特殊なフォントにしているのが気に入らないらしい)」とか、そうした情緒的な拘りを持ち込むこと自体が、私には不可解極まりなかった2

誰も求めていないサービスやめませんか

どうも根本の美意識や価値観に違いに根付いているようなのだ。彼らは丁寧さが美徳だと思っているらしいが、私にとっての美徳とは「最低限の正確性の保証」を保ちながら「目的を早く達成すること」にある。ある文書を作るとき、書き手と読み手の両者が自明に求めるその二つさえ満たしていれば、あとはノイズでしかない。ところが私の職場の人員は、綺麗に体裁を整えてちゃんとした紙に印刷しようだの、失礼にならない丁寧な鑑文をつけようだのが大好きで、私の目にはいらない仕事を増やして満足しているように見えてならない。誰も幸せにしない過剰なサービスであり、自己欺瞞的な優しさである3

こうした過剰な優しさは、本来シンプルだったものにどんどん複雑さを付け加えていく。締切もその一つで、このイベントで設定された締切を超えても、決裁が終わるまでの間に問い合わせがあれば、彼らは理由をつけて受け入れようとする。私は内心断固として反対だったが(それを理由にして断ることができないのなら、一体何のための締切なのか)、結局ずるずる、ずるずるとゴールポストは動かされ、しかも締め切りを過ぎて申し込んだものほど、調整があらかた終わっているがために、直接担当者と連絡をとりながら、かえってスムーズに自分の意向に合った内容に申し込めたりするという(胸糞悪い)、正直者が馬鹿を見るような状況を生むのである。

私はどうしたらいいのだろう

まあひたすら職場の悪口を書いたが、要するに理系的な、細かいところは無視して効率的に割り切れるシステムを作って、人間がそっちに合わせようぜ、という割り算を美徳とする思想寄りの人間が、個別の例外に対しては個別に足し算・引き算で対処するのが丁寧!みたいな人たちの職場にいるとそらストレス溜まるよね? という、極めて当たり前の話である。そしてそのギャップは想像以上に根深く、深い価値観の相違に根ざしているので、表層的に職場のリテラシーを上がったり、あるいは私が彼らなりの流儀を学んで身につけたところで、多分永久に分かり合えないと思うのだった。


歩くことの人類史

話変わって、最近の進歩は、日本語の書籍で面白いものにきちんと出会い、新しい知見を得ながら自分の価値観を更新し続けていることだ。最近買った本はハズレが少なく、特に歩くことの人類史という本は、書かれているその内容(歩くという行為への、驚異的な分量の、多様な角度からの洞察)に膝を打った。新しい視点を得られたし、同時に、自分が心の中ですでに悟っていたことを言語化してもらえたような感覚もある。

Footnotes

  1. ちなみに言うと参加者情報の9割以上は電子申請フォームからcsvで出力した「とってだし」なので、彼の割いている労力はその意味でも過剰である。もちろんEXCELにする過程で想定外の崩壊をする可能性は無論あるのでチェックは必要ではあるが、データ型の挙動に関する背景知識があればチェックにかける精神的負荷は随分省略できるはずである。てゆーかまずは紙の申請だけピックアップして入念にチェックした上で、デジタルの方は要所要所を押さえて確認するよね、普通。ところがうちの上司は頭っから捲るしか頭にないからな…。

  2. そもそも「この辺で改行していた方が気持ちい」なんてのは誤差の範囲であって、個人の受け取り方もそれぞれだ。仮に影響したとしてもコンマ1秒判断が早くなるかならないか程度であろうそんな事のために、オリジナルデータの堅牢性やメンテナンス性を犠牲にするというのは、あまりにも馬鹿げていないか?

  3. 鑑文の文面なんて、1秒以上目を通す人間の方が希少だと思うのだが、ああした方がいい、こうした方がいいとうんうん考えるのが、果たして人を幸せにするだろうか? そんな暇があったら最低限ミスってはいけない項目だけチェックして、正確な情報を安価な紙に統一的な様式で素早く印刷し(てゆーか本当は郵送で送らなければいけないのも受け入れ難いのだが)、送ってあげるのが何よりのサービスではないのか?