久々にブログを書く。それも自力でだ。 ここ最近はObsidianをベースに、AIと連携して記事を書いていた。 特に1ヶ月ほどは意識的にnote記事を毎日連投していた。 ObsidianとAIを使ってこそ成せる業だ。
プロセス
- Rakuten Kobo などのハイライト情報を普段から書き溜めておく
- Obisidianにノートとして取り込む(プラグイン+Pythonコードにより自動化)
- ノート群を必要に応じて繋げ、独自の抽象的アイデアのノートに昇華する(ここまでは人力)
- それらの情報をもとにGeminiに記事を提案させ、執筆させる
プログラムは使っているものの、1から3までは人力で、4だけがAIによる作業だ。 一見すると、効率的で理に適った手法に思える。実際ある程度うまく機能した。
だが、第にこの執筆(というか生成)方法に疑問が湧き始めた。
きっかけとなったのは、norimakiguruguru氏のブログ記事だ1。
Quote
Obsidianに対して愛着を感じていたこと、それをおそらくClaude Codeによって失いつつあることに気づいてしまった。(中略)Claude Codeに記事を書かせてもそのような機能はない。むしろ過剰な情報を吸収不良のまま、ノートに排泄しているのかもしれない。他人の排泄物に愛着を持つほうが難しい。そしてそのノートは自身の理解を過大評価させる。
全く同様の感覚を私も覚えていた。 AI(私の場合はGemini)が書いた文章はよくまとまっている。情報が削ぎ落とされ、順番も適切。 読む側からすれば、私が書く文章よりもずっと良いだろうことに異論はない。
問題は、norimakiguruguru氏がいうところの「愛着」だ。 「文章への愛着」。とてもいい言葉だと思う。 つまり、文章の価値は、「読む側の視点」だけでは測れない、ということだ。
それは、「書く側」にもたらす benefitだ。 むしろブログなどの個人的な発信では、書く側にとっての価値こそ、多くの人が求めるものだ。 すなわち「文章を書く過程を経て思考が整理され、定着される」、という側面だ。
元々は外部にあった情報が身体化される感覚に近い。 私たちは思いを消化するために、比喩を捻り出す。 一度視覚化された言葉を並べ替え、削ぎ落とす。 ある意味で、真の意味での読書がここで行われる。
それは確かに「愛着」という言葉が相応しい、身体や時間を経由した手垢と結びついた価値だと思う。 客観的に削ぎ落とされ、洗練された文章よりも、無駄が多い個人の文章だけが持つ輝きがある。 AIを使うこと、少なくともただ通り一遍の文章を書くだけでは、「情報の身体化」は望めない。
今後の方針
だから当面、恐らくは1ヶ月は、このブログに関しては自力で書こうと思う。 ただzennやnoteなど、第三者に短く要点を伝えることに主眼を置いた場では、引き続きAIを活用する。 文章を書くことの目的といっても、それを載せる場所によって変わってくるのだ。
圧倒的な効率とそれに支えられる情報量。 第三者への発信というフィールドで、AIを使うことの利点は計り知れない。 実際、ここまで書いてきた文章を振り返って気付かされる。 自分はAIを使わないとこうも稚拙なのだ。
だが、そのノイズが多く、不恰好な文章こそが自分の本当の居場所を教えてくれる。